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息苦しくて、しょうがない。やめようよこんな「察する文化」は

久しぶりに、みたんだな。

善意がうまく機能しない姿を。

 

察することが必要とする環境

僕は以前こんな記事を書いたんだな。

www.gufufu-land.com

ここでは意識の違いで、田舎の文化の受け止め方故の問題が起こったっていう話。

 

で、実は。昨日かそれぐらいに同じような話に遭遇した。

 

正直いって。僕はその現場に遭遇した時、相当

 

え?

 

という顔をしただろう。

 

発言した人はどんな気持ちでこの発言をしたのか。

詳細はこうである。

 

 

僕は今とある習い事に通っている。

性別も年代も結構ばらばらのところで少人数で学んでいる。

 

先日のことだ。

Aさんがお菓子をもってきて皆に配ったのだ。

実はAさんがお菓子を配るのはこれで2回目。

 

僕は1回目も2回目もそれはそれは満点の笑みで

 

いただきます

 

といってお菓子をもらっていた(その時配られたのはぐみのようなもので食べはしなかった)

 

そして僕が受け取って(正確には僕の前に配られて)すぐにBさんの前にもおかしが配られた時、Bさんはお礼の言葉をいった。そしてすぐに、つぶやくように、こういった。

 

 

「ありがとうございますー。うわぁー・・・これはどうしよう、もってこなくちゃいけなくなったわぁ・・・」

 

こんな感じの発言だったと思う。

 

僕はこの言葉を聞いたとたん強烈に違和感を感じ、行動がストップした。

 

あぁ。あぁ。これは、あれか。迷惑行為にとられてしまったのか?と。

 

 

僕は直接この人から、上記の発言の意図を聞いていない。

ただ、僕の中でまとめた結論と、妻に聞いてもらって概ね同意をもらったから、それほどずれていないと思う考えを述べたい。

 

僕はBさんがAさんからお菓子を受け取ることでこう思ったんじゃないかなと考えた。

 

「Aさんからお菓子をもらってしまった。これはお返しをしなければいけない。そういえばAさんからお菓子をもらうのは2回目。これは次確実に準備しなきゃ。いやだなぁ。お金もかかるし食べたくない時もあるのに・・・」

 

とね。

 

 

なぜ素直に善意を受け取れないのか

Bさんの考えに至るのもわからなくはない。

というのも、今はかなりの個人時代。食べるものや着るものまでかなり個人の自由にされている。

以前は日本の風習だった文化もかなり崩壊してきていると聞いている。

 

会社の飲み会に参加しなかったりお酒は飲まないことを死守したり。

 

全部が全部じゃないけど、良い面にも働いていると僕は思っている。

 

こういったお菓子を配る文化だって、元は職場の人間がおかしを寄り添ってもってくることで食べていたころの名残だろう。Aさんに限っては単純な好意だろうけど。

 

なので昔比べたらかなり制限がなくなっている。

その制限緩和も、よくよく話を聞くと「なるべくお金をかけない方向でいきましょう」というものが多い。

 

今回のだって、お菓子とはいえ毎回、もしくはたまにでも用意したらその分はお金かかる。お金が少ない世の中、出費を抑えたいと思うのは主婦にとって当たり前だ。

 

ただ。それはそれ、これはこれだ。なぜ考えの切り替えができないのだろうか?

 

Bさんの発言にも色々意味はあるだろうが、つまるところ意識の面でいえば「マイナス面」が発生していることはよくわかるだろう。

 

なぜ好意をいただいてマイナス面を発生させるのだろうか?

 

なぜ僕みたいに素直に好意を受け取れないのだろうか?

 

僕が言いたいのは、別に好意を受け取ってもどうとも思わない厚顔になれと言っているわけじゃない。

いただいた好意は素直に感謝の言葉と共に受け取る。ただそれだけでいいのだ。

 

そして受け取ることに対して、ある時、「自発的に」何か思うのならば、行動に移せばよい。

 

もし仮に相手が何か見返りを求めてきているものなら、素知らぬふりをすればいいだけなのだ。

 

善意ってものは、マイナスに受けられるべきものじゃあない。

 

善意を重ねたら善意は広がる

なぜ僕がこれほどでに善意を素直に受けないことに嫌悪しているのかというと、次の2点があげられる。

  • 善意がそこでとまってしまう
  • マイナスの考えはマイナスしかうまない。

 

善意は重ねたら広がるものだ。僕はそう信じている。

 

例えばさっきのお菓子を配った件。仮に僕だったらこう考える。というか考えてた。

 

「1回ならず2回ももらえた。お金もかけずにお菓子を食べれてうれしい。しかし3回目になれば流石にもらってばかりは悪いな。そうだ、普段Aさんはクッキー系が多いから、チョコ菓子類でお返ししよう。あれもいいし、これもいいな、選ぶのが楽しみだ」

 

ってね。

 

相手は見返りをもとめていないし、僕もする気はなかった。しかし相手の善意に感化されて、誰に言われたわけでもなく、自ら人のために何かをしようとする気になった。

 

これって地味な行動だけど、すごく重要で大切な話だよ。

 

これこそ察する文化の一番の利点でしょう。

 

誰に言われたわけでもなく、自ら人のために行動を起こす。

 

教育としては最高の教育方法だともいえるね。

 

本来日本にあった察するっていう文化はこっちを意味するものなんじゃないかな。

 

少なくとも相手の好意を後ろ向きにとらえること、それを美学になんか僕はしたくないね。

 

またマイナスの考えはマイナスを呼ぶというのもある。

 

好意というプラスのものを、マイナス発想の察するで、いいことなんかあるわけないということだ。

 

察する文化全部を否定しているわけじゃない。マイナスな方向性の、発展的じゃない方向の察する文化を否定しているのだ。

 

仮に、仮にだ。もしAさんがBさんの考えとするところの内容を察してしまったらなるか?

 

当然こうなる。

「あれ?よかれと思ってくばっていたお菓子が実は嫌がられていた?あらー・・・お菓子配るの控えよう・・・」

 

絶対こうなる。

 

こんな発想にいたるようになって、何になる。

 

人に好意を授ける好意だって、今まで気軽にできてたのが、考えだけ先に走ってしずらくなる。

 

そのうち考えるのが面倒になって、好意そのものが面倒になる。

 

どうするんだよそんなことになったら。どうしてくれるんだよ。

 

誰が幸せになるんだ。だれが良い気持ちになるんだ。どこに発展性があるんだ。

 

後ろ向きなものには未来はない。

 

 

察するなんていう後ろ向きな文化に発展はない

それでも今日本全体の察する文化は、僕の言うところのマイナス方向、 後ろ向きな内容に向かいつつあると思っている。

 

これに関しては、世の中のありとあらゆる要素と、人それぞれの考えが混ざり合って出来てしまっているために、簡単には変えられない。

 

それでも僕は提案したい。

 

人の好意は素直に受け取るようにしよう。

 

そして察する時には前向きな、前進的な、発展的な、人が幸せになる方向性の察し方をしよう

 

とね。

 

常に明るく考えてたらなんでも明るくなるよ。

 

物事一つ、考え方を変えれば不幸もハッピーさ!

 

 

僕は皆の好意を厚い顔して全部受け取ります!

 

 

皆も喜んで好意を受け取ることのできる達人に、なろう!!!